歴史
病院誕生
明治元年に山下門(現在の帝国ホテルのあたり)に兵隊仮病院が設けられました。後に数多く設立される陸軍病院の最初のものであり、国立国際医療研究センターの前身です。そのころの我が国は戊辰戦争中であり、その傷病軍人を診療するため、同様の仮病院が各所に設けられました。
明治3年に大阪衞戍病院(現在の大阪医療センター)が、その後、仙台、熊本および広島と当時の陸軍の駐屯地(師団司令部)に相次いで病院が創設されましたが、東京だけは経緯が異なります。明治4年に軍医寮附属の本病院(軍事病院)が創設され、各仮病院の患者は、軍事病院に全て移されました。軍事病院は明治6年に陸軍本病院と改称し、軍医総監が院長として任命されました。病院のみならず、陸軍一般の医事を総括しました。
陸軍本病院は、半蔵門の近くの麹町元山王の三宅氏(田原藩)の上屋敷跡に建てられました。現在の国立劇場、最高裁判所のあたりです。上の写真は、明治7年に竣工した管理棟です。和洋折衷建築であり、明治23年に発行された東京名所図絵にも掲載されました。
「陸軍衛戍病院は半蔵門外東の堀端に在り陸軍々人の病院あり元陸軍病院と云へり」
と紹介されています。
以降、明治新政府の制度の変更に伴い、目まぐるしく名称が変わります。
- 明治14年 東京陸軍病院
- 明治19年 東京鎮台病院
- 明治21年 東京衛戍病院
- 明治39年 東京第一衛戍病院
戦争~そして
明治時代の大きな2つの戦争、日清戦争と日露戦争では、予備病院が開設され、多数の傷病軍人の治療を行いました。日露戦争時の最も多かった時期には13,294名もの患者を収容しました。写真は当時の病棟です。
我が国初のレントゲン設備が導入されたのも、この頃です。その後、昭和4年に現在の地、新宿区戸山町に移転します。
太平洋戦争末期には、全国各地に疎開し、多くの分院が設立されました。各分院は終戦後に独立し、国立病院となりました。
病院管理のモデルホスピタル
太平洋戦争終結後、国立東京第一病院と改称し、広く一般国民に対する医療の普及と向上を目指すことになりました。
新たに小児科、産婦人科を開設するなど、総合病院としての体制が急速に整えられていきました。
- 昭和27年 中央材料室、血液銀行、病歴室の設置
- 昭和28年 我が国初となるアイソトープによる放射線治療開始
- 昭和29年 癌相談室の設置、我が国初となる人間ドックが開始
など、全国に先駆けた取り組みが次々と行われました。
"がん"以外のすべての疾患のため
「"がん"に対してのがんセンターがあるように、"がん"以外のすべての疾患のために国立医療センターを設立したい」
※理念を語ったものであり、"がん"に対する診療も行っています。
当時の病院長、市川篤二の思いが実り、昭和40年10月6日に国立医療センター設立準備懇談会が開催されました。さらに翌日、設立準備委員会が発足しました。懇談会には、厚生大臣、日本医師会長、日本医学会長など錚々たる方々に出席いただきました。
- わが国の代表的病院を作ること
- 近代病院の機能を完備すること
- 特定の専門病院でなく高度の機能をもつ総合病院であること
- 診療と研究が直結し、さらに教育的機能を備えること
当時としては画期的な設立計画案が示されました。しかし、大学紛争およびオイルショックの影響で計画は遅れ、ようやく昭和49年に国立病院医療センターとして発足しました。現在では珍しくありませんが、医療機関では我が国初となる、近代的な高層建築の病棟が建てられました。
国立病院の中心~国立病院医療センター
- 昭和49年 臨床研究部(現:研究所)開設
- 昭和61年 国際医療協力部(現:国際医療協力局)開設
- 平成9年 エイズ治療・開発センター(ACC)開設
- 平成13年 国立看護大学校開設
- 平成16年 国際疾病センター(現:国際感染症センター(DCC))開設
現在のNCGMの組織が形作られていきます。平成5年、国立療養所中野病院と統合し、我が国4番目のナショナルセンターとなりました。国際医療協力の中心的な役割を担う施設として、国立国際医療センターと改称しました。
諸外国で発生した災害に緊急援助隊を送るなど、世界に向けて活動していきます。
国府台病院と統合~国立研究開発法人へ
戦前からの長い歴史を有する、国府台病院と平成20年に組織統合しました。
- 平成20年 肝炎・免疫研究センター開設
- 平成22年 中央棟(写真)完成(センター病院)
- 平成27年 外来管理治療棟完成(国府台病院)
- 平成28年 メディカルゲノムセンター(MGC)開設
センター病院と国府台病院、2つの病院は新しい建物に生まれ変わりました。最新の設備と優れたスタッフで我が国の臨床、研究、医療教育に貢献いたします。